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やらない善より、やる偽善
わたし、『鋼の錬金術師』大好き人間です。
先日待ちに待った最新刊が発売されたので、久しぶりにパラパラと読み返しておりました。

この作品、本当にテーマが重くて考えさせられることが多々あると共に、印象的な台詞がよく出てきます。中でも個人的に特に印象に残ってるのが本日のタイトルの台詞。

「やらない善より やる偽善」。

とても好きな言葉です。


なんでもJWに結びつけるのもどうかと思いつつ、やはり結びつけちゃうんですが(苦笑)。
子供の頃から、「エホバに喜ばれるように行動しなさい」、「いつでもエホバが見ておられるんだよ」、「イエスのように謙遜で親切でありなさい」・・・なんてことを両耳にタコができるほど教え込まれてきました。

できるかぎり、実践するよう努力してきたつもりです。

でも、JWを離れてから思うんですけど、そんなことって生きていく中で自然と身に着けていくものなんじゃないかと。聖書にだって、“自然の情愛”ってあるじゃない。そんな四六時中叩き込まれて、一種の強迫観念すら覚えながら実践することじゃないだろうと。

あとあと、「たとえ苦手な人のことでも、その人の良い所を見なさい、探しなさい」というのも強調されてたけど、これもなんか違うと思うわけです。確かに、相手の良い所を見るのはとても大事なことではあるんですが、それって無理矢理見つけ出すようなものではないと思うんですよね。その人と言葉を交わしたり接したりする中で、少しずつ発見していくものだと思うんです。

よく知りもしない、増してや苦手な人の良い所なんてそうそう見つけられるものではないです。
それをこれまた「なんとかして見つけないとエホバに嫌われる」とか「親に叱られる」なんて、恐怖感から必死こいて見つけようとするわけです。引きつった笑いを浮かべながら、「姉妹(兄弟)のそういうとこ見習いたいですぅ~。」なんて、必死に見つけた極小の良い所を、すんごいオーバーに過大に誉めたりするわけ。

これが、ものすごく気持ち悪かった。
こんな薄笑いを浮かべて苦手な人(一人強烈な長老がいたんです!)に媚びてる自分がたまらなく嫌でムカついてました。こんな無理に取り繕った好意を、エホバが喜ぶはずが無い。そう思いつつも、自分の気持ちに正直になったらなったで、内心ほとんどの人を“どうでもいい”と思っていたわたしには、そんな自分も最低で許されない存在・・・。

これぞまさしく神(組織)と自分との板ばさみ!

ああ、嫌だねぇ~。


と、前置きが長くなりましたが(前置きだったの!?)、そんなこんなでちょっと良いことをしようとしたり、人を誉めようとする時、その行為がたまらなく嘘っぽくて偽善的に感じるようになっちゃいました。「結局これはエホバに嫌われないために、自分のためにやってるんだ」と思ってきたから。

相手のこういうところが素敵だな、と感じてもそれが素直に出せないんですね。
なんか嫌味になっちゃうんじゃないかとか、不快に感じさせるんじゃないかとか。


でもね、そんなわたしの脳内でぐちぐち考えてることなんて、当然まわりには見えなくて関係ないわけで・・・。偽善的だから席を譲るのはやめとこうとか、嘘っぽいから人を誉めたり励ましたりとかすんのやめとこうとか、わたしの中では理由があるとしても、まわりには単なる冷たいヤツでしかないんですよね(^^;)。

なので、“やらないよりはやる方が良い”と思うようにしようと。
偽善的だと思われてもいいじゃないか、良い人ぶってると思われてもいいじゃないか。

椅子に座れたら助かる人もいるだろう、誉められたら喜んでくれる人もいるだろう。

やらなかったら、その可能性すらも存在しないわけだから。



・・・な~んて、でかい口叩いちゃいましたが、基本的に人間恐いゆずぽんには非常にハードルの高い話でございます(苦笑)。ま、小さな事からこつこつと!!の精神でがんばりますわん。
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テーマ:今日のつぶやき。 - ジャンル:日記

【 2008/08/28 11:40 】

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